絹ばあちゃんと90年の旅―幻の旧満州に生きて

絹ばあちゃんと90年の旅―幻の旧満州に生きて

「今が一番幸せだよ」
伊豆・天城の山奥で一人畑を耕す、後藤絹さんの口癖だ。
初めて絹さんに出会った日、時代の流れのなか戦争に巻き込まれていった、その過酷な人生のあらすじをかいつまんで聞いた。

1913年静岡県藤枝に生まれた絹さんは、看護婦として働いていた1939年に家の都合によって、当時国策だった開拓団として満州に渡る。
満州の地で開拓団の青年と結婚し三人の子どもを授かるが、夫は召集され、1945年8月9日のソ連軍侵攻による大混乱のなか、点々とする避難生活で三人の子を次々と亡くしてしまう。
そして日本敗戦後の内戦状態となった中国で、一枚の看護婦免許が絹さんを帰国から遠ざけた。中国共産党八路軍従軍看護婦として“留用”され、後方衛生部隊として3年間看護活動に従事し、1949年中華人民共和国成立後は、ハルピン医大で看護婦養成のために働くことになる。
日本敗戦後8年が過ぎた1953年、やと念願の帰国を果たす。シベリア抑留を経て天城に開拓に入っていた夫と再会し、ふたたび生活をはじめる。二人の子どもにも恵まれ、その子どもたちも成人し、それぞれ東京で暮らしを築いている。夫はすでに他界し、絹さんは一人で畑を耕し日々を暮らしていた。

私は絹さんの住む天城を訪れては日常を共有し、その記憶を旅するうちに、今まで実感として感じなかったことを感じるようになった。例えばこんなことだ。
ひとたび国家の戦争が起これば星の数ほどの「個人の戦争」がはじまる。「戦争」は終戦で終わるものではない。
「亡くなった子どものことは忘れないよ、これは一生ついてまわるの、死ぬまでね」
絹さんの言葉だ。
人間の中に起こる喜怒哀楽の感情は、生きてきた時代が違ってもそれほどに違うものではないと思う。絹さんの顔はやはり深い感情が刻まれた顔だ。
「今が一番幸せだよ」
絹さんの発するこの響きは、つきあうごとに深みを増していった。

2006
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